『作画汗まみれ』の「車というものはない」

 学生時代に大塚康生さんの『作画汗まみれ 増補改訂版』(2001年)を読んで、ルパン三世の企画書に関する次の文章に「なるほど!」と思った。

 企画書の一部はいまだにおぼえています。「車というものはない。それはベンツであり、コロナであり、ブルーバードという名前と固有の形を持った商品であり、機械である。(略)」

大塚康生『作画汗まみれ』より)

 「こういう考え方がアニメを進化させていったのか~!」と。日本のアニメの歴史は、空間にしても人体にしても小道具にしても目の描き方にしても、(良くも悪くも)徐々にあいまいな部分を無くしていった歴史だと自分は思っているが、そういう理解へと至る最初の手がかりを得たのがこの文章を読んだ時だった。

 さて、最近『作画汗まみれ』を久しぶりに読み返して思ったのだが、もしかして「車というものはない」は、「雑草という草はない」という名言をアレンジした言葉だったのかな?

 今年の8月に「雑草という草はない」の史料に関する記事をネットで見かけて、頭の片隅に残っていたので、そんなことを思いました。

 学生時代には「雑草という草はない」という言葉は知らなかったけど、覚悟のススメに出てくる「雑草などという草はない」という台詞は知っていて、とはいえ「車というものはない」からそれを連想することはなかったなぁ。そう考えると、学生時代より今のほうが脳内の言葉と言葉が結びつきやすくなってるのかもしれない。それは、人が中年になるとダジャレを言い始める現象と関係あったりするのだろうか……。

 そんなことを思った。特にオチはなく終わり。

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