『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の感想

 TVでヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qが放映されたので、横目でチラチラ観た。なぜ横目かというと、あまり興味がわかなかったから。『Q』は劇場で一度観たきりだけど、何がしたいのか本当に分からなくて、僕の心の中に置き場所が無かった。
 だけど、今回は劇場での鑑賞時とは少し違う印象を受けた。なぜなら、2019年にこの記事を読んだからだ。

【参考】【庵野監督・特別寄稿】『エヴァ』の名を悪用したガイナックスと報道に強く憤る理由 | 庵野秀明監督・特別寄稿 | ダイヤモンド・オンライン

 庵野監督が古巣のガイナックスとの関係性や心境を説明している。エヴァンゲリオンがヒットしたことで、人間関係や、所属組織や、いろんな大事なものが壊れていく経験をした人なんだなって思った。そこから想像を広げたら、『Q』で何をしようとしたのか少し分かった気がした。

 『序』『破』でみんなのために初号機を操縦して頑張ったシンジくんが、『Q』ではメチャクチャつらそう。サードインパクトを起こした件で責められてる。初見時はまずこのシチュエーションが飲み込めなかった。このつらい状況って何なのって。
 でもこれって、庵野監督を取り巻く現実の変化に置き換えて考えると理解できるんじゃないか。つまり、頑張って最初の新世紀エヴァンゲリオンを作ったらヒットして、そこまではよかったけど、想定外に大ヒットして『ヤマト』『ガンダムに次ぐ第3の波を起こしてしまった。そして、ふと気づくと、「アニメ」を取り巻く状況が一変した。現実世界の姿を変える引き金を引いてしまった。その結果、さっきも言ったような、いろいろ大事なものを壊してしまうつらい経験があったんじゃないかなとも想像するし、そもそも一変した「アニメ」を取り巻く状況も、果たして理想的な世界だったんだろうか?
 「現実に多大な影響を及ぼしたこと」が作品を作った人の罪とは僕は思わないけど、当人は困惑したり、やり切れなさを感じてつらかったのかもしれない。『Q』ってそういう、「よかれと思ってやったのに、期待しない方向に世界を変えてしまった人の苦悩」をシンジくんで表現した映画だったのかな、と思った。「エヴァに乗ってもいいことがなかった」って、セリフ自体は旧作にもあったかもしれないけど、『Q』を作った時には、エヴァで世界を変えた苦悩を味わった監督の本音でもあったんじゃないかな。そう考えると、なんだか、真面目に取り組めば取り組むほど精神的に疲弊しそうなテーマだけど……。

 ただ、庵野監督みたいに「自分の作品が多大な影響を及ぼして、現実世界の形を大きく変えてしまった人」って、人類の歴史の中でもごく一部だろうし、自身が起こした変化を「文化を発展させたぞ!」って喜ぶんじゃなくて、逆にそれで苦悩する人となると更に少ないと思う(科学技術が兵器に転用された人とかには居そう)。
 そう考えると、旧エヴァで描かれた庵野監督の「悩み」(人間関係が苦手とか、僕って何?とか)は大勢の人が共感できる悩みだったと思うけど、今回描かれた庵野監督の「悩み」(世界を変えてしまったどうしようつらい)は、あまりにも特殊すぎる……。簡単には共感できない悩みだ。1億人に1人とか、10億人に1人ぐらいしか持たない悩みなんじゃないか。でも、だからこそ映画にして表現する意味があるのかもしれないけど。

 そう考えると、劇中で渚カヲルくんが「エヴァで変わったことは、エヴァで再び変えてしまえばいい」とか「償えない罪はない」とか言うけど、意味深だ。世界を変えてしまった苦悩を乗り越える回答が『シン』で描かれるのかな。楽しみだ。

 今回はそんな風に観たので、劇中のキャラの意味不明な行動は、(僕はそういう極限状態に身を置いた経験が無いから理解できないけど)、もしかしたら実体験に基づくものなのかもなーと思った。「事実は小説よりも奇なり」で、実体験に基づく「冷静に考えたら変だけど、人って実際にはこういう時にこういう行動するんだよね」みたいなものであるがゆえに、観ていて意味不明なのかもしれない。

 まあ、そんなこととか、「死んだ碇ユイの復活を頑張り続けるネルフ上層部って、旧エヴァの時には思わなかったけど、現在においては、『王立宇宙軍』の復活(『蒼きウル』)を頑張り続けるガイナックスっぽさあるな……」とか、いろいろ想像(妄想)してたら、いつの間にか横目でチラチラじゃなくて、TVの前に座って観てた。

 結局のところ、よく分からない映画だと思うけど、初回に観た時よりは、映画の歯車と僕の心の歯車が噛み合う回数が増えた気がしましたね。